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 エコプチな人々 : 第1回−斉藤テツエさん
投稿者 river-rat 投稿日時 2005-1-28 12:46:22 (4632 ヒット)        印刷用ページ


第1回
斉藤テツエさん(副代表)
「斉藤さんへ送る言葉」

 グリーンプロジェクトで活躍するスタッフの横顔をインタビュー形式でお知らせする『エコプチな人々』というコーナーを春から始めるため企画を作っていた。その第1番目ははじめから斉藤さんにしようと決めていたが、2005年1月5日に斉藤さんが亡くなり、この企画ははじめからつまづいてしまった。今回はインタビューのかわりに私の斉藤さんについての思い出を書き記そうと思う。
 ・・・とはいうものの、私はグリーンプロジェクト以外での斉藤さんをあまり知らない。私と斉藤さんの付き合いは斉藤さんが亡くなるまでのたった2年半だけ。残りの70年以上の人生をどんな風に生きてきたのか、どんな仕事をしていたのか、趣味はなどなど・・・。このコーナーは、そんな話を聞くきっかけにしたいと思っていたが結局何も聞けなかった。葬儀などでスタッフの思い出話を聞きながら、あらためて斉藤さんの色々な面を知るのであった。
 葬儀には遠い場所にもかかわらず30名以上のスタッフが参加した。葬儀の親族のあいさつで息子さんの言葉に、私は涙が抑えられなかった。
「グリーンプロジェクトの副代表という大役を授かり、70を過ぎてからの父は本当に生き生きとしていました」
 花に囲まれた棺おけの中の斉藤さんは、なるほど75歳らしい老人の顔だった。

 斉藤さんと知り合うきっかけは「どんぐり拾い」だった。毎年秋になると、私は熊野の知り合いにドングリを送るため、近くの公園を回ってドングリ拾いをしていた。2002年の9月、公園でドングリ拾いをしていると
「もっとむこうにいっぱい落ちているよ」
と教えてくれる散歩のおじさんがいた。それが斉藤さんだった。
 次の朝、ダンボールいっぱいのドングリが玄関先に届けられていた。斉藤さんが朝から拾ってくれたそうだ。
「こんなにたくさんのドングリをどうやって集めたのだろう?」
と思うと同時に
「これだけドングリを拾える人なら力になってくれるかもしれない」
と思い、斉藤さんの家に行って、これからはじまるプロジェクトへの協力をお願いした。定年後は近所に知り合いもなくて毎日退屈していたそうだ。ふたつ返事で了解をもらった。
 雑草だらけの荒地での斉藤さんの活躍は目覚しいものだった。スコップを持たせても一輪車を持たせても、20代の私は70代の斉藤さんに歯が立たなかった。荒木田の土を取るための穴を掘らせれば4mも掘るし、雨の日のコンクリートガラ運びも音を上げない。後ろ姿は20代のそれと見間違えるような筋肉質な体だった。タオル製造の会社にいたため、力仕事はお手の物だったようだ。私は毎日敗北し、夕暮れ時にうなだれながら、涼しい顔をしている斉藤さんと帰宅の途についた。斉藤さんの獅子奮迅の活躍により、荒地は見る見るうちに整備されていった。その無尽蔵な体力に私があきれていると、
「歯だけはいいからなあ」
といって、自前の歯をむき出して笑った。その異常な体力に、私は斉藤さんを「テツエ・ロボ」と名づけ、
「1号から3号までいて、昼飯のときに入れ替わる」
とか、いつも土を耕すので野菜が育たないのを見て
「ロボットなので野菜の栽培や車の運転など細かい作業は出来ない」
といってからかった。
 斉藤さんは行動は誰よりも早く、口数は誰よりも少なく、誰よりも気が利き、誰よりもやさしかった。
意見がもめても斉藤さんの一言でみなが納得し、誰もが斉藤さんに一目置いていた。彼はいつしか『組織の精神的支柱』となっていた。
 普段はおとなしい斉藤さんも、お酒がはいるとハメをはずした。忘年会ではカラオケで「氷雨」を7回連続で歌い、「ガオーッ!」と道路で雄たけびをあげてわめいた。ただのタチの悪い酔っ払いジジイだった。
 そんな『鉄人』だったから、病気の発見に気づくのが遅れてしまったのかもしれない。2003年の夏に最初の手術をしてから、見る見るうちに鉄人の面影はなくなっていった。しかし前向きな性格と鉄の意志は折れることがなく、よろよろしながらもエコプチに通い、復活するための準備に怠りがなかった。
 昨年の役員選任の際、私は回復がすすまない斉藤さんにあえてお願いした。
「斉藤さんが死ぬか、ここがなくなるまで副代表をお願いします」
斉藤さんは弱い笑顔で
「迷惑かけて悪いが、そういってもらえるならやらせてもらうよ」
と答えた。その役割を果たそうとしたのか、亡くなる1ヶ月前までイベントやテレビ撮影に参加していた。痛いとか、苦しいとか、つらいとか、そんなことは一言も言わなかったし、私も余計な声はかけなかった。ただスタッフの話によると、ゴミの容器を測りに持ち上げるのがしんどそうだったので、代わりに測りに乗せてあげたことがあったという。その重さはたった11キロだった。

 ずうっと一緒だったから、エコプチでの斉藤さんの思い出は尽きない。回転テーブルもビオトープも斉藤さんが作ったし、倉庫も斉藤さんが持ってきた。エコプチには斉藤さんの思いだせない場所がない。最後の2年半をグリーンプロジェクトだけのために費やしたような人生だった。まさに「死ぬまで」頑張った人だった。
 私が自信なさそうに迷っているとき
「やっちまうか?」
といたずら坊主のように笑う斉藤さんにどれくらい背中を押されたろう。人を責めず、愚痴をこぼさず、弱音を吐かないその姿にどれほど学ばせてもらったことだろう。私の大好きな宮沢賢治『雨ニモ負ケズ』を地でいくような人だった。
 私たちは斉藤さんに出会えて幸せだった。きっと斉藤さんもそうだろう。もしも願いが叶うなら、人生の最後を斉藤さんのようにみんなに愛され、尊敬され、惜しまれながら清々しく終えたいと私は思う。

 いま、私たちは斉藤さんをいつまでも忘れないように、何か足跡を残せないかと考えている。まだ話し合いが決まっていないが、おそらくキウイのブランド名を「テツエ」にすることになるだろう。斉藤さんはキウイの世話が上手で、誘引や選定の方法を皆にていねいに教えてくれた。エコプチで取れたキウイを口にすることは叶わなかったけれど、今年も来年も斉藤さんの名を冠したキウイがエコプチで採れ、そのたびに私たちは斉藤さんと収穫の喜びを分かち合うことができる。

 人と人が出会い、共に汗を流し、共に歯を食いしばり、時に笑い、時にケンカし、共にはぐくみ、共に分かち合い、共に支えあいながら、付き合いを深めていくことはかくも素晴らしい。斉藤さんとの出会いは、その価値を私に教えてくれた。
「エコプチ」はまちに「ささやかな幸せ」を産み出す装置といえるかもしれないし、「エコプチな人々」は生きるささやかな喜びを日々味わっている幸せな人々といえるだろう。しかもそんな場所をつくっているのは、近所のふつうのおじさんおばさんたちだ。特別な力を持たない、特別でない人たちによってつくられた「特別な場所」。
 こういう場所がたくさんできれば町はもっと幸せであふれるだろう。「エコプチな人々」を通じて、そんなメッセージがお伝えできればと思っている。
(代表 平田ヒロユキ)


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